スキンケアをやめてみたら、少し楽になった日のこと

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手を伸ばしかけて、やめた朝のこと

いつもの流れが、ふと途切れた瞬間

その朝は、特別な予定もなく、慌ただしさもありませんでした。目が覚めて、洗面所に立って、顔を洗う。その流れ自体は、いつもと変わらなかったはずです。ただ、次に手を伸ばすはずだった場所で、動きが止まりました。理由を探すほどの間もなく、「今日はここで終わってもいいかもしれない」という感覚が先にありました。

何かを決めたというより、流れが少し緩んだような感じです。やめよう、と考えたわけではなく、やらない選択をした、という意識も薄かった。ただ、その場で一つ動作が抜け落ちただけでした。それなのに、その小さな変化が、思っていた以上に印象に残りました。

「やらなかった」ことへの反応を探していた

スキンケアをしなかった直後は、少し様子をうかがう気持ちもありました。あとから気になってくるのではないか、落ち着かなくなるのではないか。そんな予想が、どこかにありました。でも、鏡の前に長く立ち止まることもなく、そのまま朝の支度を続けている自分に気づきました。

何かが足りない、という感覚よりも、「考えることが一つ減った」という感触のほうが近かったように思います。順番や手応えを確認する時間がなくなった分、頭の中が静かでした。その静けさが、少し意外で、同時に心地よくもありました。

肌より先に、朝の空気が目に入った

いつもなら、洗面所の鏡に向かっている時間に、その日は窓の外を見ていました。光の入り方や、空の色をぼんやり眺めながら、時間が流れていく。肌に意識を向けなかった分、周囲のことが自然と目に入ってきたのだと思います。

顔を触らなかったことで、触覚も視線も別の場所に向かっていました。肌を気にしなかった、というより、話題に上らなかった。その距離感が、朝全体を少し広く感じさせていたように思います。

小さな間が、あとから意味を持ち始めた

家を出る頃には、「本当にこれでよかったのかな」という問いが、かすかに浮かびました。ただ、その問いは強くならず、答えを急かすこともありませんでした。正解を出さなくても、そのまま進める感じが、その朝にはありました。

振り返ってみると、手を伸ばしかけてやめた、あの一瞬は、何かを変えるための行動ではなかったのだと思います。ただ、立ち止まる間が生まれただけ。その小さな間があったからこそ、これまで無意識に続けていた動きや気持ちに、あとから目が向くようになった。そんな気がしています。

何もしなかった時間が、意外と気にならなかった

外に出てから思い出すまでの間

家を出てしばらくは、朝の出来事を思い返すこともありませんでした。電車に乗って、人の流れに混じって、いつもの一日が始まる。その中で、顔のことを意識する場面は確かにありましたが、「今どうだろう」と確かめるほどの切迫感はなかったように思います。思い出すより先に、用事や会話に意識が向いていました。

気にしていない自分に、あとから気づく。そんな順番でした。何もしなかったのに落ち着かない、という想像は外れて、実際には思い出す回数自体が少なかった。忘れている時間が長かったことに、少し驚きました。

触れないことで、話題から外れていた

考えてみると、普段は触れることで話題が始まっていたのかもしれません。洗面所で触れて、鏡で見て、その流れのまま一日を過ごす。触れていなければ、話題に上がらない。単純なことですが、その単純さに気づいていなかったように思います。

触れないことで、評価もしなくなる。良し悪しを決める入口がなくなって、そのまま通り過ぎる。その感覚は、無関心とは少し違っていました。距離があるからこそ、無理に判断しなくて済んだ、という印象です。

余白として残った数分のこと

時間の使い方にも、小さな違いがありました。朝、洗面所で過ごしていた数分が、そのまま空白になっていました。何か有意義なことをしたわけではなく、ただ座っていたり、外の音を聞いていたり。それでも、その余白が急かされる感じを和らげていたのは確かです。

何かを足したわけではなく、引いただけ。その結果、時間が増えたというより、気持ちが詰まらなくなった。そんな表現が近い気がします。

気にならなかった事実だけが残った

夕方になってから、ようやく朝のことを思い出しました。そのときに残っていたのは、良かったとか悪かったという評価ではなく、「意外と気にならなかった」という事実でした。特別な変化があったわけではないのに、その事実だけが静かに残っている。

何もしなかった時間は、意味を持たせなくても成立していました。そのことが、あとからじわじわと効いてきたように思います。

続けることより、気持ちの負担を先に見たくなった

楽だった理由を、あとから考え始めた

何もしなかった日が特別だったわけではありません。ただ、そのあとも何度か思い出すうちに、「なぜ楽だったのか」を考えるようになりました。楽だった、という感覚だけが先にあって、理由は後回しになっていた。その順番が、少し不思議でした。

振り返ると、楽だったのは肌の状態ではなく、考えなくて済んだことだったように思います。確認や判断をする場面が減ったことで、頭の中が静かだった。その静けさが、日常の中で思っていた以上に貴重だったのかもしれません。

「ちゃんとやれているか」という問い

普段のスキンケアには、「続けている自分」を確認する側面があったように感じます。今日は抜けていないか、順番は合っているか。そうした問いは、小さくても積み重なると意外に重くなる。その重さに、あの日をきっかけに気づきました。

問いがあると、答えを探してしまいます。答えが見つからないと、不安になる。その流れが当たり前になっていると、負担として自覚しにくいのだと思います。

真面目さが、そのまま重さになるとき

続けようとする姿勢自体は、悪いものではありません。むしろ、丁寧に向き合おうとする気持ちから生まれているはずです。ただ、その真面目さが、いつの間にか自分を縛る形になっていた。そんな可能性に、あの日の静けさが気づかせてくれました。

頑張っているつもりはなくても、「崩さないようにする」意識が続くと、息をつく場所がなくなる。その状態に、知らないうちに慣れていたのかもしれません。

続ける前に、負担を感じ取る

それ以来、続けるかどうかを決める前に、「今は負担になっていないか」を考えるようになりました。肌の様子を見る前に、気持ちのほうを先に確かめる。その順番に変えただけで、向き合い方が少し柔らかくなった気がします。

続けることをやめる、という極端な選択ではなく、負担に気づける状態でいる。そのほうが、結果的に長く付き合えるのかもしれない。今は、そんなふうに考えています。

また戻るとしても、前と同じじゃなくていい気がした

少し間をあけて、また手に取った日

何日かたってから、自然とまた手を伸ばす日がありました。やめていたことを意識して戻った、というより、今日は触れてもいいかな、と思えた瞬間があっただけでした。そこには、以前のような「やらなければ」という気持ちはなく、様子を見るような静かな感覚がありました。

戻ったからといって、すべてを元通りにしたわけではありません。以前と同じ順番や量を再現しようとも思いませんでした。どこまでなら負担にならないか、その境目を確かめるような動きだった気がします。

全部やる、から少しだけやるへ

前は、やるなら一通りやる、という意識がありました。途中で止めることや、今日はここまでにする、という判断に、どこか後ろめたさがあったように思います。でも、何もしなかった日を挟んだことで、その感覚が和らぎました。

全部やらなくても関係は続く。そう感じられたことが、大きかったのだと思います。触れる量や頻度を調整する余地があると分かっただけで、気持ちはずいぶん軽くなりました。

揺れを前提にした距離感

スキンケアとの関係は、一定である必要はないのかもしれません。触れる日もあれば、触れない日もある。その揺れを許してしまったほうが、無理が出にくい気がしています。

毎日同じことをしていなくても、不安になることは減りました。確認しなくても大丈夫だと思える時間が増えたことが、その理由かもしれません。

少し楽になった日の感覚を残しておく

あの日のことを、特別な出来事として覚えているわけではありません。ただ、「少し楽だった」という感覚だけが、静かに残っています。その感覚があることで、迷ったときに立ち止まれるようになりました。

また戻るとしても、前と同じでなくていい。その選択肢を持てたこと自体が、スキンケアとの距離を穏やかにしてくれたように思います。これから先も、その感覚を基準にしながら、無理のない関わり方を選んでいけたらいい。そんなふうに感じています。

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